第5回コラム

国産ジーンズ誕生記 その4

< その頃 岡山は >

 

学生服の一大産地、岡山県倉敷市児島

 

「富士ヨット」「カンコー」「トンボ」「鳩サクラ」

これらは皆さんご存知の制服メーカーで、岡山県倉敷市児島地区に本社を置く企業です。

 

備後地区(児島を含む岡山西部〜広島東部の一帯)に繊維産業が発展したのは、昭和初期までは綿花栽培がこの地域の主要産業の一つであり、栽培〜生地にするまでのサプライチェーンが整っていました。

今でも岡山と広島の県境にある井原(いばら)地区は、「カイハラ」「クロキ」「日本綿布」「坂本デニム」など、日本を代表するデニムの生地メーカーがずらりと並ぶ一大産地です。

 

児島地区で縫製業が盛んになったのは、備後地区の生地が入手しやすかったのと、四国にも近いので、従業員を瀬戸内海を伝って関西・中国・四国・九州から広く集められること、そして瀬戸内海に突き出た立地で海運の便がよく、大阪や九州の消費地まで製品を運びやすかったことによります。

余談ですが、児島のうどんは讃岐うどんに遜色なく美味なのです。

なんでも、四国出身の女工さんに喜んでもらうためだったのがルーツだとか。

 

学生服が盛んになったのは、児島は元々は足袋など和装小物が主力でしたが、人々が洋服に変わって、もの作りを洋服に転換させる際、流行を追っては都会のメーカーには勝ち目がないので、何年も変わらない制服に目を付けたのだとか。

また、井原で作られる、ぶ厚くて丈夫な綿生地も制服にぴったりでした。

まだ子供が多かった1963年には、この地域の制服は年産1000万着を超えるほどの一大産業に成長しました。

 

児島には今でもカットソーやバッグや帽子を作る工場が点在しており、そのルーツは体育服・学生カバン・制帽だったそうで、学校で必要な衣服は頭からつま先まで児島で作っていたそうです。

 

 

児島でジーンズを縫う。

 

キャントンが火付け役となり、国産ジーンズの市場が拡大しはじめます。

キャントンは高坂ミシンと渡辺縫製を核に、作業服がメインだった群馬や埼玉の協力工場で生産を拡大していたものの、それでも需要に追いつかない大石貿易は、ぶ厚いジーンズを縫える工場を探す中で、児島の尾崎三兄弟の長男・小太郎が営む「マルオ被服」に行きつきます。

 

児島では元々ぶ厚い学生服を縫っていたので、ジーンズ用の特殊ミシンを追加するだけで、学生服の生産設備がほぼそのまま使えたのです。

(ミシンは同じように見えても、下着を縫うような薄物用と、ジーンズを縫うような厚物用では、全く構造が違う別物です。)

マルオ被服は大石貿易の生産委託という形で、児島で初めてジーンズを縫います。

オーダーが途切れずにフル稼働するマルオ被服を見て、尾崎三兄弟の次男と三男が営む「山尾被服」もまたキャントンの生産委託を請け負います。

洗い加工が必要なジーンズは、習慣的に水を扱う染色工場やクリーニング工場が母体となって、加工工場もこの地域で育ってゆきます。

 

CANTONを生産するかたわら、マルオ被服はBIG JOHNを、山尾被服はBOBSONの自社ブランドを立ち上げて、旺盛なジーンズ需要に乗って、両社はまたたく間に全国規模のブランドに成長します。

この成功を見た児島の学生服工場は、我も我もとファクトリーブランドを立ち上げ、ジーンズバブルが到来します。

当時は作れば作っただけ売れたそうで、当然 生地も足りずに奪い合いだったそうです。

営業マンの仕事は商品を売り込むことではなく、現金を握りしめて、朝から生地問屋にトラックを横付けして、ぶんどりに行くのが仕事だったというほど、活況を呈していたそうで、今から考えると、本当にうらやましいお話です。

 

こうして児島地区は、学生服の聖地にプラスして、ジーンズの聖地にもなってゆきます。

 

日本で最初のジーンズについては諸説あって、CANTON説とともにBIG JOHN説が主流ですが、どちらも間違いではありません。

1973年、それまで輸入頼りだったデニム生地を、紡績・染色・織布までの全てを国産化した最初のデニム「KD-8」をクラボウが開発します。

そのKD-8を最初に採用したBIG JOHNのジーンズが、初の「純」国産ジーンズなのです。

 

 

関東では。

 

キャントンは児島地区に生産委託する以前から、渡辺縫製が主体となって、主に埼玉の羽生地区と、宮城県北部の若柳町(現栗原市)の高畑縫製に生産委託していました。

羽生地区は元々作業服の工場が多く、作業服の生産設備もまたジーンズを縫える厚物ミシンでした。

大消費地の東京に近いこの地域では、時代が進むにつれて自動車や電機、物流などの多くの産業が進出して、労働者不足に陥ります。

それに伴って賃金が上昇し、決して給料が高くない縫製業界には従業員が集まりにくくなり、縫製工場の経営を圧迫していました。

 

最初の章で触れたように、縫製業は常に人件費が安い国や地域を求めて転々とするジプシーのような産業ですので、縫製工場の人不足は生産が間に合わないCANTONの悩みの種でした。

 

また、ジーンズバブルが発生していた児島地区では、それぞれの自社ブランドがメインになって、CANTONも思うような生産量を確保できなくなっていました。

 

そこで、大石貿易は人件費が安い東北地区に目をつけ、企業誘致で宮城県の河南町(現石巻市)に初の自社工場「東北ビッグストン」を設立して、渡辺縫製の渡辺夫妻を工場長に迎えて操業を始めます。

 

当時はまだまだ地方には工場=雇用が少なく、地方から都会の工場に出稼ぎに出るのが当たり前の時代でしたが、地方自治体が工場団地の整備や税制上の優遇措置などを行って、地方への企業誘致が盛んになり始めた時でした。

遠方の工場に住み込みで働きに出る形から、工場の方から地元に来る形に働き方が変化した時代でした。

 

こんな歴史があって、羽生や栗原市には今でもジーンズ工場が点在しています。

 

 

(その5 「巨艦沈む」に続く)