第6回コラム

国産ジーンズ誕生記 その5

< 巨艦沈む >

 

キャントン改名す。

 

児島ブランドの猛追を受けるキャントンも快進撃を続け、ブランドスタートからわずか3年後には年産10万本を超える規模にまで成長します。

 

しかし、ブランドスタート5年後の1968年、アメリカ本国のCANTON社から訴えられるという事態が発生します。

本家のCANTON社に(たぶん)無断で使用していた、大石貿易のキャントン。

 

CANTON社も、最初は東洋の弱小国の弱小企業だからと黙認していたようですが、日本の各ブランドへのデニム輸出が立派な商売になると、パテント料を払えと請求してきたのです。

 

そらそうです。

大石キャントンじゃないブランドが「CANTONの生地を使ってます」となったら、消費者を混乱させるわけですから。

 

CANTON社から訴えられた大石キャントンは、1868年以降はブランド名を「BIG STONE」(大石!)に改名します。

 

BIG STONEは改名の影響もなく、東北ビッグストンは250名の社員を抱える大工場に発展し、続いて秋田にも自社工場を設立するなど、日産5,000本を超える自社生産体制を築いて快進撃は続き、日本を代表するジーンズブランドの地位を強固なものにします。

 

 

オイルショック発生。

 

しかし、絶好調のさなかの1975年、突如オイルショックが発生します。

オイルショックとは、イスラエルと中東諸国の間で起きた第四次中東戦争に於いて、中東諸国を支持する石油輸出国機構(OAPEC)が、イスラエルを支持する国に対して行った経済制裁のこと。

イスラエルを支持する国への原油価格を一方的に4倍に引き上げることで起こった、世界的な経済ショックです。

日本は中東戦争に直接関わってなかったものの、アメリカと強固な同盟関係を結んでいる事で対象国にされてしまいます。

 

100円だった原油がある日突然400円になるのですから、高い原油を買える経済力がなかった日本は、たちまち石油不足に陥りました。

発電からなにからなにまで石油に頼り切っていた日本への影響は甚大で、電気料金や物流費が高騰して、何もかもが耐えがたいほど急激に値上がりしてしまい、生活必需品以外のモノは全く売れなくなります。(というか、買えない)

 

節約のために国の命令でエスカレーターを停止したり、ガソリンスタンドを日曜休業にしたり、テレビは0時前で終わったり、とにかく石油の消費を必死に減らそうと、コロナ自粛よろしく、石油自粛の状態に陥りました。

リーマンショックを経験された方なら、世界規模の経済ショックが生活に及ぼす影響がどれほどのものか、想像できるでしょう。

日本はオイルショックの経験に懲りて、石油だけに頼らないエネルギー政策の一環として、原発を推進してゆきます。

震災以降、原発が止まったままの日本のエネルギー事情は、オイルショックの時代と同じくらい世界情勢に翻弄される脆さを抱えてますから、数ヶ月後にはガソリンや電気代が倍になってもおかしくない不安定な状態にあると言えます。

 

かくして、年産150万本を擁する体制を敷いていたBIG STONEへの影響は計り知れず、ジーンズバブルを謳歌していたショップは次々と倒産し、売掛金の回収もままならなくなりました。

店頭で売れず、資金繰りが日々窮屈になっているそばから、毎日5,000本超のジーンズができ上がってくる恐ろしい事態に陥ります。

 

 

巨艦没す。

 

在庫と資金繰りに経営が圧迫されたBIG STONEは、工場の操業停止はもちろん、膨大な在庫をところ構わず大量に投げ売りして在庫を現金化しましたが、消費者からはすっかり「安物」のレッテルが貼られることになりました。

 

今でこそ「安いは偉い!」になっていますが、当時の安物は「安かろう悪かろう」と言われるほどイメージが悪いものでした。

しかも、当時の日本人の世間体や見栄というものは、今より遥かに重要で、特別な外出や旅行の際は普段着とは別の「よそ行きの服」があったほど。

幼児はなぜか白いタイツを穿かされていましたね。

「身の丈」より「背伸び」が当たり前だった時代ですから、ブランド物は「メーカー品」と呼ばれて、その看板はすごく重要でした。

 

「メーカー品」の看板を失ったBIG STONEが再浮上することはなく、80年代を前にしてあえなく倒産してしまいます。

 

このように、他の産業にたがわず、国産ジーンズもまた盛者必衰、山あり谷ありの歴史があって、皆さまのお手元にあります。

 

 

 

(その6「工場はどうした?」に続く)