第5回コラム

国産ジーンズ誕生記 その4

< 国産ジーンズ誕生前夜 >

 

国産ジーンズの歴史に於いて、大石貿易が展開したCANTON/BIG STONEブランドは外せない存在です。

波瀾万丈の末に倒産した、今はなき大石貿易の歴史になぞって書くことにします。

当時を知る工場さんや先輩方からの伝え聞いた話がベースなので、裏をとってない部分が大半ですから、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

 

 

ジーンズと闇市

 

日本人にジーンズが認知されるのに大きな役割を果たしたのは、戦後の闇市でした。

非合法の闇市は、焼け残った木材をかき集めて作った、粗末なバラック小屋の集合体でした。

ここでは食料品から日用品まで様々なものが売られ、米軍から払い下げられた中古衣料を扱う店もありました。

軍物や普段着の中に混じって、着古された淡いブルージーンズもありました。

物不足の人々にとって、丈夫なブルージーンズは、ファッションというより実用衣料として重宝され、かなりの人気商品だったそうです。

 

その闇市に、米軍関係者から中古衣料を買い付けて納入する仲買人も出入りしていました。

米軍関係者と取引できるパイプを持つ仲買人は限られており、その中のひとつに、大石哲夫(敬称略)が営む「大石貿易」がありました。

 

ちなみに、この仲買人の中に後の「EDWIN」の常見米八商店、軍物レプリカで有名な「HOUSTON」のマキノ商事がいました。

大石貿易は巨大闇市の上野アメ横の南隣の秋葉原に、常見米八商店は北隣の日暮里に、マキノ商事は埼玉の大宮に本社がありました。

 

 

さあ、ジーンズを作ろう。

 

1960年代初頭、当時の日本にはデニムを作れる生地メーカーがなかったので、1963年の繊維輸入自由化に合わせて、アメリカから生地を輸入して日本で縫う、半国産ジーンズを作ろうと目論む人たちが現れます。

 

大石哲夫もその一人でした。

闇市の仲買人からスタートした大石貿易は、この頃にはアメリカからリーバイスや中古ジーンズを輸入して全国のショップに卸す立派な貿易商社に発展していて、豊富な販売ネットワークもあり、国産でもっと安いジーンズを作って一儲けしようという発想に至ったのは自然なことでした。

 

商社マンの大石は縫製の知識がないので、かねてから親交があった埼玉県羽生市の「高坂ミシン」の社長、高坂芳美に協力を依頼して、二人は生地とミシンを買い付けにアメリカに向かいました。

 

最初に向かったのは、当時世界最大のデニムメーカーだった「コーンミルズ」社でしたが、敗戦国で貧困国かつ敵国の日本人には売れんと、けんもほろろに断られ、業界二位の「キャントン」社と契約します。

続いてミシンショーに出向き、巻き縫いやらベルト付けやらの特殊ミシン一式も買い付けてきました。

 

輸入した生地やミシンを運び入れたのが、高坂ミシンと親交があった、群馬県伊勢崎市の「渡辺縫製」でした。

ここで日本で初めて夫人の渡辺千代子氏がパターン(型紙)を引いて、縫製したサンプルが、国産ジーンズの始祖となります。

サンプル作りを重ねて、日本人の体型に合うパターンが開発されました。

さしずめ、大石哲夫氏が国産ジーンズの「ビッグ・ボス」、渡辺千代子氏がジーンズパタンナーの「ビッグ・マム」ですね。

 

 

さあ、ジーンズを売ろう。

 

生産技術や日本人に合うフィットを研究し、1963年、大石は生地メーカーそのまんまのブランド名「CANTON」で日本初の国産ジーンズを売り出します。

 

そのジーンズは、それまで普通の日本人が見たこともない、濃紺でパリッと糊がきいた新品で、誰もが買える価格でした。

元々卸が本業の大石貿易ですから、ゼロからショップを開拓する必要もなく、「これは売れるでぇ〜」と確信を持って発売したジーンズは、しかししかし、ああしかし、期待に反して全く売れません。

買ってくれたわずかなお客さんからは、「洗ったら縮んで穿けなくなったじゃねーか!」「色移りしたじゃねーか!」などのクレームも相次ぎました。

 

売れない原因は、未洗いで固くゴワゴワした生デニムだったことでした。

本場アメリカでは、新品といえば生デニムが当たり前。

アメリカ人は、最初は大きめを買って、洗って縮めて自分のサイズにするのが常識だったのですが、当時の日本人にとって、ジーンズは色あせたブルーでやわらかく、最初からジャストサイズを選ぶものだったので、それを知らない日本人に生デニムは受け入れられなかったのです。

 

 

さあ、このジーンズどうすんべ。

 

在庫と返品の山を目の前に茫然自失の大石は、一部のショップが自前の洗濯機で洗って縮めてやわらかくして売っているという情報をキャッチします。

大石も試しに少量を洗ってテスト販売すると、客の評判も上々に売れたのです。

大石貿易は、輸入した中古衣料を洗濯してから流通させていたので、大量に洗える背景はありました。

これで手応えを掴んだ大石は、それ!とばかりに在庫を洗って売り出すと、逆転ホームラン!

まさに飛ぶように売れ始め、生産が間に合わないほど、CANTONは一気に全国に拡大します。

 

アパレル業界にとって、「新品を洗って、新品として売る」ということ自体、もしかしたら世界初の偉業だったかもしれません。

さらに、世界で初めてのジーンズの洗い加工が、日本でスタートしたというのも、歴史的な出来事です。

 

(その4 「その頃 岡山は」に続く)